日本に来て失望、中国よりも社会主義の国だった

ベーシックインカムという考え方はしばしば社会主義ではないかと指摘されます。

簡潔に述べるとそういった古い思考に絡め取られないのがベーシックインカムではないかと思っています。

ベーシックインカムは「社会主義」とは逆に位置しています。

この引用記事の筆者である柯隆さんは以下のように述べられています。

「結論を言えば、格差そのものは問題ではない。富を得る正当性を説明できるかどうかである。正当な富であれば、その所有権は法的に保障されるべきである。働く者が公正に報われる社会では、働くインセンティヴが働く。働かない者、怠け者が過剰に保護される社会は停滞することになる。

 社会の発展とは、富を蓄積することではなく、文化と文明を蓄積することである。富を小粒に分けて平等に分配していては、それは実現できない。後世に豊かな文化を残すために、蓄積された富を健全に分配すべきである。」


ベーシックインカムは現行制度に比べると圧倒的な公平性を有していると思っています。

それはある意味システィマチックに分配する「機能」だからです。

さまざまな社会保障制度の運用がある意味「さじ加減」が効いてしまう人間的な問題を孕み、公平・公正さにおいての不信感が他人への不信感を招き入れている気がしています。


また、ベーシックインカムという考え方が怠け者を生むという批判は常々されますが、それは「私にとってベーシックインカムは働かない理由にはならないが、他人にとってのベーシックインカムは働かない理由になる」という根拠のない理屈なのではないかと思っています。

こういった記事はベーシックインカム推進論者からも批判をされるかもしれませんが、さまざまな判断材料を今後も提供していけたらと思っています。


さて「働く」ということは一体どういうことなのでしょうか。



日本に来て失望、中国よりも社会主義の国だった

Japan Business Pressより

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43619

2015.4.28(火) 

筆者:柯 隆

富士通総研 経済研究所主席研究員。中国南京市生まれ。1986年南京金陵科技大学卒業。92年愛知大学法経学部卒業、94年名古屋大学大学院経済学研究科修士課程修了。長銀総合研究所を経て富士通総研経済研究所の主任研究員に。主な著書に『中国の不良債権問題』など。


以下記事引用


日本に来て失望、中国よりも社会主義の国だった

行き過ぎた「平等」は社会の活力を失わせる

 日本人は不平等なことに対して相当神経質のようだ。日本では多くの人が、社会は平等でなければならないと思い込んでいる。私は27年前に留学のために来日した当初から、そのことを強く実感している。

 中国は社会主義だから平等でなければならないが、日本が平等でなければならない理由はよく分からない。日本では大勢の人が平等であることを追い求めた結果、日本社会は中国よりも社会主義的になってしまった。

 このことは筆者が日本社会についてもっとも失望した点だと言える。27年前、筆者はさまざまな苦労を乗り越えてようやく社会主義中国を脱出した。それなのに、たどり着いた日本はなんと中国以上に社会主義の国だった。その落胆がどれほどのものだったか、みなさんに分かっていただけるだろうか。

 2期目の安倍政権について筆者が個人的にもっとも良かったと思う点の1つは、安倍総理が就任初期に「報われる社会作り」を提唱したことだった。だがその後、どういうわけか、報われる社会作りは言われなくなった。

 「報われる社会」は必ずしも平等な社会にはならないが、公平・公正な社会にはなる。日本の失われた20年をずっと見てきた筆者は、日本社会の病根はまさに不公平、不公正さにあると考えている。例えば大企業の場合、同期入社のサラリーマンの待遇は誰も大差はなく、実に平等である。だが、そのおかげで会社の活力が削がれている。怠け者を優遇しすぎている半面、きちんと結果を出している社員の所得を抑え、しかも多額の税金を徴収しているからである。

 今や中国では「格差」が拡大して社会主義の国ではなくなったのに対して、日本はますます社会主義的になっている。

 トマ・ピケティの本『21世紀の資本』がベストセラーになっているが、彼の主張にはどれほどの合理性があるのだろうか。資産運用のキャピタルゲインが経済成長率を上回ったことを理由に、国家権力を以てキャピタルゲイン課税をむやみに強化していいのだろうか。

 個人の所得と資産運用のキャピタルゲインは、その人の努力によって得られたものであれば、法的に守られるべきである。許してはならないのは、働いていないのに多額の報酬を得ることであろう。所得や報酬を得る合理性を問わず、一方的に課税を強化するのは許されるべきではない。

 中国では毛沢東時代、毛沢東元国家主席を含む一握りの高級幹部を除けば、一般国民は絶対的に平等だった。働いても働かなくても給料はまったく同じである。そのため、労働者も農民も働く意欲が湧いてこない。怠け者が得をする社会では経済は発展しない。その結果、人々の生活はますます困窮してしまった。

 「改革・解放」以降の30余年の中国を振り返れば、最高実力者だった鄧小平は一部の者が先に豊かになることを奨励した。格差を恐れず、成長さえすればそれでいいという理念である。だからこそ人々は働く意欲が湧き、経済も発展したのである。

 もちろん、問題もあった。経済成長の富を公平に分配するメカニズムが用意されなかったという点だ。しかも、権力を握る共産党幹部が人民よりも先に豊かになり、政治改革は先送りされた。このように合理性を説明できない所得格差は、当然のことながら社会不安の原因になっている。

【完全に平等な社会は発展しない】

 社会の富をいかにして分配すればいいのかは、簡単に答えを出せる問題ではない。「ジニ係数」は所得格差の程度を表す指標である。値が1の場合、すべての富は王様1人に集中していることになる。それに対して、その値が0の場合、富はすべての社会構成員の間で平等に分配されている。ジニ係数が1の場合は、暴動が起き、王様は打倒されてしまうだろう。しかし、0の場合は経済が発展しない。なぜならば、完全に平等な社会では経済発展の原動力が生まれないからである。

 中国は毛沢東の時代、経済も社会も人々の生活も文化もすべてが停滞し、発展しなかった。「改革・開放」路線を進めて経済的に余裕が出てきたことで、さまざまなインフラ施設や文化施設が建造されるようになった。

 かつて、イタリアのメディチ家は巨額の富を個人の欲望を満たすために使うのではなく、後世に輝かしい文化を残すために使った。今の日本は世界3番目の経済大国だが、何百年後も残るような文化施設をつくる余力はない。それは建築技術の問題ではなく、富が万遍なく平等に分配されているからである。

 社会の安定を図る観点から、富の分配はまず人々の基礎的な生活を保障することを優先して行わなければならない。そして余剰の富は、働く者が報われるという観点からエリートに集中していく。

 個人の欲望を満たすための消費には、高い税率で消費税や付加価値税を課税すべきである。代わりに、文化施設や社会インフラに投資するならば、税制面において優遇する。日本では、文化財のような立派な家でも相続税を払えないがために取り壊され、公園にされているケースがある。これは文化を粗末にする暴挙と言わざるを得ない。

 一方、中国の所得分配には決定的な問題がある。それは働く者が報われず、権力者だけが報われる構造になっているという点だ。

 中国の権力者はどれだけ富を手に入れても、文化施設や社会インフラに投資しない。その原因の1つは、権力者がその富の正統性を説明できないことにある。彼らはあの手この手で個人財産を海外のタックスヘイブンへ移そうとする。詳細な統計はないが、中国の汚職撲滅キャンペーンが長期化すれば、タックスヘイブンの経済にも深刻な影響を及ぼすことになるだろう。

【後世に豊かな文化を残すための富の分配を】

 結論を言えば、格差そのものは問題ではない。富を得る正当性を説明できるかどうかである。正当な富であれば、その所有権は法的に保障されるべきである。働く者が公正に報われる社会では、働くインセンティヴが働く。働かない者、怠け者が過剰に保護される社会は停滞することになる。

 社会の発展とは、富を蓄積することではなく、文化と文明を蓄積することである。富を小粒に分けて平等に分配していては、それは実現できない。後世に豊かな文化を残すために、蓄積された富を健全に分配すべきである。

 今年は終戦から70周年にあたり、冷戦終結からも25年以上が経過した。それにもかかわらず、先進国も新興国も、限られた富を軍事予算に充てている。ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が提唱した「ソフトパワー」という言葉は世界的に広く使われている。富の分配はまさにソフトパワーの強化を軸にして行われなければならない。